fstoe's blog

現実に生きる人間というものに対して、深い哲学的考察を目指しています。

「政治とは何か」を哲学的に深く考える。

一般市民とちょっと哲学的な話になると「脳がまず存在してその脳が意識を作っている」ということを周知の事実として話が展開される。しかしながら、それは確かにある一面では正しいが、それが出発点の考察では真実を深くえぐり出すことは出来ない。「存在する自己が孤独になり、瞬間瞬間に生に実際に生きている自己自身を自覚している」ということが出発点であるべきである。このことを心の底から悟らないといけない。(論理的に理解する類のものではない)このことを悟れない普通の一般市民が「脳がまず存在してその脳が意識なり心なりを作っている」という類のことを出発点としてしまっているのだ。


さて、なぜ「脳が意識を作っている」を出発点とすると真実をえぐりだせないのか。その一般市民の出発点とは何者なのか。「瞬間の自覚」を出発点とすると、その「脳」という概念が実は誰かによる誰かの為の概念であることを自覚する。すなわち概念とは「目的概念」である。社会なり世間なりの何かしらの有用性に適する存在事物に「概念」を付与するのであって、無意味な存在事物に長年の歴史に耐えうる概念が付与されることは無い。米を主食とする民族には米だけでなく田や稲やごはん等々の様々な概念が存在するが、パンを主食とする民族にriceはriceという概念しか存在しない。上下関係に敏感な民族はあなたを貴様やお前や君といった色々な言い回しが存在するが、上下関係よりも個を重視する民族にはyouしか存在しない。


要は脳という概念はとても有用なのであるがゆえに、脳という概念が生まれたのである。脳という存在事物があたかも全ての出発点としての物質として君臨しているのではない。


さて、本題はここからである。脳という概念を生み出したのは誰か?それは間違いなく医学業界の誰かである。タクシー業界の誰かが突拍子も無く脳という概念を生み出したとは考えにくい。医学的に極めて有用な概念であるがゆえに、それがあたかも存在の根底に君臨する概念として確立してしまっているに過ぎないのである。要はわれわれがアルツハイマー病なりの何かしらの脳の病気になったときに医学的に生きる概念であって、何気無い日常生活においてその脳という概念が必要になるということはまず無い。

ここで強調しておきたいのは「どんな業界も業界として政治的である」という点である。「医療は人の命を助けるとても重要で神聖で政治的に犯されるべきではない」という綺麗ごとが時々公にされる場合があるが、これはあくまでも表向きの綺麗ごとである。「人の命を助けた、というデータを蓄積させて、そのデータによって医療業界の存在感を高める」というのが真実である。この真実を我々自己自身は自覚しないといけない。この自覚すべき真実を自覚すると、例えばおのずと「セカンドオピニオン」という概念が自己側で生まれ、(陰的に)政治的に利用されている我々の肉体を逆に我々自身が政治的に守ることが出来るようになるのである。


「脳」の根底には医療業界の政治があり、その政治に利用され闇に葬り去られないためにも我々自身が自己を自覚して、逆に政治的感覚を研ぎ澄ます必要があろう。

 

さて、その「政治的感覚」というものを哲学的により深くえぐり出してみよう。全ての意識の出発点は「瞬間の自覚」である。これは存在している自己であれば誰でも(無自覚的に)自覚しているものである。「我々は、色々物事を考える以前にもうすでにこの世に事実として存在している」という当たり前すぎる事実が意識の出発点である。

 

この当たり前の事実を自覚することは、実は(一般市民にとっては)なかなか難しい。一般市民にとってはこの瞬間瞬間の存在している事実は「過去」「未来」「夢」「遠い世界の出来事」などによって覆い隠されているからである。


この「瞬間の事実」から分断の断絶線(対立)が引かれたときに、その瞬間から自己が自己から離れてしまう。断絶とはすなわち「今」と「過去未来」に対する断絶、「ここ」と「遠い世界」とに対する断絶、「自己」と「他者」との断絶である。もっと分かりやすくいうと、赤色と青色という対立が意識に上ってきて初めて「色」が存在することになる。生まれて死ぬまで「赤色」しか見ていない人が「色」そのものを認識するとは考えにくい。我々は死ぬから「生」を認識できるのであって、皆が不老不死で誰も死なない場合、「生」を認識するとは(事実として生きているとしても)考えにくい。


こんな一見どうでもいいような例えを出したが、実はこの例えがとても重要である。すなわち、「意識が何かを認識するということは、それは瞬間に断絶線を引くこと」だからである。要は何も断絶線を引いていない瞬間こそ、その「瞬間の自覚」であり、瞬間に沢山の断絶線を引くことで一般市民は色々な物事を認識しているのである。


ここで、もっとも重要視すべき断絶は「自己」と「他者」という断絶である。瞬間瞬間においては実は自己も他者もない。事実として瞬間瞬間が流れているのみだからである。さて、この自己と他者との断絶が起きたときに、次に重要なのが「身内」と「赤の他人」という断絶である。身内はまさに親、兄弟、親戚、または広い意味で同僚、同級生、、といった類である。その逆に「赤の他人」とは、まさに「名前」も「所属」も「住所」も知らない他者である。

 

この分類は想像以上にとても重要である。実は自己のこの世での生死はその「赤の他人」から「信用」が得られるか否かにかかっているのである。身内との信用はもちろんとても大事だが、それは赤の他人との信用と比べると「お遊び」程度のレベルである。


そしてその赤の他人からの信用こそ「お金」に他ならない。それぞれの業界団体はその「赤の他人からの信用」を恒常的に得るために、様々な概念を洗練化する。例えば、「宇宙の果て」は物理学業界によって洗練化されている概念である。「深層心理」は心理学業界、精神医学業界によって洗練化されている概念である。「神」は(有神論的な)宗教業界によって洗練化されている概念である(孤独になることで悟る「神」はこの限りではない)。


このようにして様々な概念は、赤の他人から絶大な信用を得るという目的のもと、様々な業界団体によって洗練化されている。そのような、業界団体同士の勢力争いが、自己自身の精神の内奥で根深く繰り広げられていることが浮き彫りになったところで、より身近な概念である「選挙」というものを(具体例として)考えてみよう。

 

選挙とは民主主義の象徴である。多数決で権力者が決まる制度である。さて、この制度が本当に最良の制度なのであろうか。あたかも最善でどの国でも採用すべき制度だと歌われているが、果たしてそうなのだろうか。



この制度の本質は、選挙における敗者(負けた業界団体)たちが暴動を起こすか否かの一点に尽きる。



「好むと好まざるとに関わらず、赤の他人から信頼を得ないといけない」という視点に立っていえば、敗者(負けた業界団体)は「スラム街」への道のりに乗ることであり、勝者(勝った業界団体)は高級住宅街への道のりに乗ることである。それは身近に手慣れた存在事物全てに対する、その生活環境そのものの流動である。目の前で起きている映画のワンシーンなんかではない。「暴動で傷つくリスクを負うくらいなら、スラム街に耐えよう」という絶妙なバランスが保たれているがゆえに「選挙」が成り立つのである。

自己に対する哲学的考察

死んだ後に天国にいったり地獄に行ったりするということがあるかもしれない。世間一般でもそういったことがまことしやかに信じられている。この世における「奇跡」(宝くじで1億円を当てるようなもの?)を体験して、この世を超える何かしらの絶大なパワーを感じる人もいるかもしれない。占いというものも、(当たるかどうかは別にして)そういったこの世を超える絶大なパワーを基にその人の将来を予想している。賽銭箱にお金を入れて色々な願い事をするのは、それはあくまでもこの世に生きている自己自身に対する、この世(或いはあの世?)に対する願いである。信仰を持つか否かで「死後に神の国に入れるか否かが決まる」という宗教もある。

さて、いずれにしてもこれらは「自己」の延長線上でしかない。天国に行く自己は、この世で現に存在している自分自身である。信仰をもって神の国に入るのも、この世で生きている自己自身である。純粋な思いやりや純粋な愛によって他者に信仰を説くことはあっても、それを実践しているのは「自己」である。奇跡を切望して、この世を超える何か或る者に祈るのも自己自身である。

 

「死」の本質はこの世との別れである。それは死後に天国に行こうが行くまいが、とにかく「別れ」が本質である。当たり前と思っている日常との別れである。極論を俗語的に言えば、ずっと溜めてきた財産が、ハイパーインフレで紙切れ同然になる感覚であろう。


我欲を捨てる」ことがとても難しいことのようにこの世では言われているが、実はそんなに難しいことではない。「いつかは死ぬ」ということを悟ることである。いや、死後に天国や地獄にいくこともあるかもしれないので、厳密にはそうでははく「いつかは必ずこの世との別れがくる」という事を悟ることである。

さて、視点を180度変えて、自己とその眼前に広がる世界との関係を考えてみよう。世界とは何か?それは(より深い意味での)競争である。競争とは目の前に広がる自己と無関係な「ゲーム」ではない。それは自己自身が直接世界と関わる関係そのものである。その関係を否定も肯定もする以前に、自己自身の精神の内奥で既に起きている関係性である。

競争の本質は「それぞれの自己が手慣れている世界がガラッと変わる」点にある。今まで自己の身近に存在した「近い存在」が遠ざかったり、今まで身近でなかったものが「近い存在」として急接近したりすることである。例えば、或る者が普通のサラリーマンから物乞いに落ちたとしよう。サラリーマン時代に、その者は普通の家を持ち、普通の同僚、部下、上司を持ち、普通の服を着ていた。「競争」によって、そういった身近な存在が瞬く間に遠のき、ブルーシートと段ボールが身近な存在事物となる。

この哲学的視点は、「競争は自己と時々関係したりしなかったりするマグレなもの」という巷の勘違いを言っているのではない。あらゆる自己に関係する事象の根底に「競争」があると言っているのだ。物の考え方、善悪の思想、常識、非常識、羞恥心といった人間(ここでいっている人間は、あくまで普通の世間一般の人間、という意味での人間)の根幹にその「競争」が関わっているといっているのだ。そして(ここが最も重要だが)普通の人間は「人間精神の根幹は、根深い競争によって決定させられている」ということに全く気付いていないのだ。

 

しかしながら、とはいっても、これはあくまで自己の眼前に広がる世界と自己との関係性を言っているのである。この関係性を究極的に冷静で客観的な視点で落ち着いてみてみると(そのように究極的に冷静に観るには、座禅といった瞑想でしか至り得ない)、そのような「競争という世界との関係」は永遠回帰であると感じるようになる。しかしここで言っている永遠回帰とは、客観的に眼前に広がる物事が永遠に繰り返されるということはない。いや、そういうことではなく、あたかも「永遠に繰り返されるのではないか」という感覚である。世間一般の人々は日々の生活から「将来の夢」というものを大なり小なり持ってその夢のために日々を生きていることが素晴らしいとされている。高校生なら受験合格だったり、大学生だったらいい企業の就職だったり、退職前の会社員だったら年金生活だったり、野球選手だったらリーグ優勝やタイトル獲得などである。


生きる目的こそが、この世で美しいことであり、また「生きる意味」の素晴らしさが説き伏せられている。生きることに意味を見出さなければならないのが世間一般なのである。しかしながら、そのように究極的に冷静に「競争という世界との関係性」をみつめることが出来ると、そういった類のものは幻影であることを悟る。いや、幻影であることを悟った者でも人間として生きる以上、勿論そういった生きる目的を設定し、そのために努力する。しかしそういう「生きる希望」的な努力の中に没している中ですら、その自己は「一切の物事は過ぎ去る。ただそれのみ。喜び、悲しみ、むなしさ、出会い、別れ、などが永遠に繰り返されるという感覚」を悟っているのである。


 



 

経済の哲学的考察

さて、哲学とは「この世的な或る物」に対する考察というよりかは「この世そのもの」に対する考察である。それは、言葉でなかなか表現しづらいものに対して言葉の表現を施すため、それは大変抽象的で分かりにくい文章となってしまうのである。 例えば「神」を言葉で表現しようとしよう。神は言葉という表現を超える或る者であるため、「神とは○○であり、○○である」といういった表現にどうしても耐えうるものではない。逆説的ではあるが、そういった言葉の表現を超える者の表現としては「詩的」な表現が歴史的に一番適していることが示されている。聖書然り、コーラン然りである。

 

さて、ここで論じたいと思っているのはそういった言葉の表現を超えるものではなく、むしろ「この世的な或る物」、より具体的には「赤字国債」について哲学的に考察したいと思う。これはこの世的な物なので、言葉の表現に耐えうる。ウィキベディアでしっかりと定義されている。なぜそのような物に限定して哲学的考察を展開するのか?それはその「赤字国債」がそういった哲学的考察に十分耐えうるほどに興味深い対象事物だからである。それは「お金」や「労働」や「搾取」といったものの共産主義的概念とは少々違った視点を提供する。

 

お金とは、通常の意味では「価値の交換」「商取引」などといった商学経済学の意味で考え進められる。しかし哲学的に考えると少々趣は異なる。それは「群集を操るバケモノに対する信用」である。「世界を支配する精神とは何か?」を突き詰める際に、必ず必須となる精神的直観である。「群集を操る」と表現したのは、それは顔見知りのお友達に対する信用を測っているのではなくて、初対面の、しかもその名前や素性が全く分からない群集に対する信用を測っているからである。そういうものの数量化としてお金という物質が使われているに過ぎない。いや、数量化が本質なので、別にアルミや銀、紙といった物質を使う必要がなく、まさに貯金通帳の「印字」で事足りるのだ。

 

よってお金の流れとは実は直観的に(或いは本能的に?)感じられるものであり、論理的に構築的に考察されるものではない類のものである。何故なら、それは個々人の生き死にに直接関わる「真剣」なものだからである。「不景気になると、全体的に個々人の所得が減り、それに伴って貧困層が増え、従って社会が不安定化する」という風に経済学的に言えるが、そういう考察の中にはすっぽりと自己自身とそのお金の関係が抜けている。そういうセリフを吐ける経済学者は、大学の講義でそういうセリフを吐くことで毎月安定した給料をもらっている。


 

そういう直観の中では、赤字国債は大変奇妙な存在である。勿論巷では色々な論理的な流れによってその「赤字国債」を色々解釈をしており、それらすべては一理ある。しかしながら、経済は化け物である。化け物をそんな個々人のワラのような論理で突けるものなのか?直観的には奇妙である。要は「いったい誰がこの超巨大な負債を背負っているのか」である。「将来世代だ!だから今のうちにその負債額を減らそう」というのは模範解答ではあるが、哲学的にはあまり的を得ていない。お金というのは「見知らぬものへの信用」であり、それは現在的な者への信用の戦いだからである。今現在の金貸しは「未来」という得体のしれない者に金を貸しているのか?

 

そもそも返せる当てがあるから金貸しは金を貸すのである。文字通り、返せる当ての全くない「未来者」に何故金を貸していると言えるのだろうか?そもそも「金貸し」というのは我々個々人の想像を絶するくらいにとても巧妙である。返せる当てのないものに金を貸すはずがない、と考える方が身のためだ。金貸しは必ず返せる当てのあるところに金を貸しているのである、と考える方が身のためだ。

 

これは言うまでもなく比喩だ。ここでいっている「金貸し」は、いわば群集を操るバケモノの化身である。必ず投下資金を回収する意味で最も狡猾な金貸しである。その金貸しはまさに今現在生きている「我々」に対してお金を貸している。「将来」という得体のしれない空気にではなく、今現在生きている我々にだ!

 

ここでいっている「お金」も、何度も言うが比喩だ。具体的には「見知らぬ者への信用」を意味している。この概念自身も実は現在的である。今現在生きている個々人が、正に今現在「見知らぬ者」から信用を得るために必死になっているのである。

 

要は、「赤字国債」と言えども、本質的には「見知らぬものへの信用獲得への戦い」と何ら変わりはない。要は(現在的な何かに)化けているのである。オレオレ詐欺者が息子に化けるが如く、「赤字国債」も巧妙に(現在的な)何かに化けているに過ぎない。未来は空である。 

 

経済概念としては、赤字国債よりももっと深く追求すべき概念が「利権」である。利権というのは我々人類がもっとも恐れるべき存在である。「この世で一番怖いものは何か」という問いに対しては間違いなく「利権」という答えしか当てはまらない。

人類だけでなく、それは群衆を操るバケモノ自身も恐れている「癌」である。利権は、「見知らぬ者への信用を得るための戦い」を必死に繰り広げることも無く、むしろそういった戦いを巧妙に避け、陰から「群集を影から操るバケモノ」の血液である「金」をチュウチュウと吸い上げる蚊である。蚊であると同時にバケモノの内臓を巣食う癌である。利権という癌は実はひっそりと大きくなっていっている。無尽蔵に大きくなりすぎるが故に、手術で取り除く必要が出てきてしまうのである。さて、その癌を取り除くのはだれか?それは群集を操るバケモノ精神自身である。バケモノが自分自身でメスを握り、自分自身で腹を切り、自分自身でざくっとその癌を取り除く。取り除いた癌はきれいさっぱりと焼き尽くされてしまう。

 

そうやって群集を操るバケモノは数々の癌を取り除き、その癌を焼き尽くしてきた。しかし癌は癌である。いつかまた再発してしまうのだ。それはひっそりと誰にも分からない形で。バケモノの脳は「創造する想像力」である。その創造力をもって世界は成長する。その成長を阻害するのは、まさにバケモノを巣食っている癌そのものなのである。

唯一の真理の概説

孤独が唯一の真理である。これはゆるぎない。それではそれはどういう感覚なのか。それは巷で言われている「悟りとは衝撃的な意識の変革」みたいなものではない。それは言うなれば意識が何かに熱中している瞬間のようなものだ。何かに熱中している瞬間は、その瞬間において過去も未来もない。意識はその対象事物に没頭している。その瞬間は言うなれば孤独だ。特に寂寥の感もなく誰々を思い慕うことも無く、ただただ対象事物に没頭している。真の熱中に「貴方」も「私」もないのだ。ただ瞬間に向かう意識それのみである。

 

意識が対象事物に熱中している場合は、これは誰もが経験していることではあるが、意識が意識自体に熱中するということ、すなわち無に集中すると、我々の意識がまるで「宇宙の一角」に浮いているように感じる。いや、これは比喩だ。別に浮いていない。意識自体は普段と何ら変わりない。ただ「日常」としての何気ない時間の流れそれ自体があたかも「自明」なものでは感じなくなる瞬間である。それが「宇宙の一角」という表現に収まるのだ。麻薬などの薬物をやっている精神状態にある意味似ているかもしれない。しかし薬物をやっている場合と、「孤独」を真理と自覚している場合とでは、実は雲泥の差があるといえる。

 

「孤独」を真理と認識している意識は、過去と未来、目に見えていない遠い向こうの出来事、すべてが当たり前と思って何気なく送っている日常を「無常である」と自覚している。よってその無常性によって過去と未来が瞬間という一点に集約され、目に見えていない遠い向こうの出来事が幻影であると悟り、「日常とは全ての事物に当たり前という烙印を一般大衆が押しているに過ぎない」と自覚し、それらの結果として、麻薬などで体験する精神状態と「孤独」という真理の精神状態が似ているに過ぎない。

 

言うなればスカイダイビングのようなものである。麻薬はスカイダイビングのインストラクターに抱っこされながら「落下」という快感を味わっているようなものである。スカイダイビングをする際に習得すべき重厚な技術を体得せずに、ただただその上澄みの快感を味わっているようなものである。それに比べてインストラクターは「孤独」という真理を重厚に体得しなければならない。

 

そういう真理の意識に至ると、この世的なものに「夢」も「希望」もあったものではない。「一切は無常に流れる。ただそれだけ」という無常観に至る。この世的なものの活動というのは、実はたいしたものではない。「日常的に何かを食べ、寝、しゃべり、思い通りになって喜び、思い通りにならなくて悲しみ、、」の繰り返しである。「まるでそれらは永遠に繰り返されているのではないか」といった感覚の下での繰り返しである。しかしこれは巷で言われているニヒリズムではない。この世に絶望しているのでもない。いや、厳密には絶望しているのではあるが、それは世間一般の意味での絶望ではない。

 

そもそも、その「孤独」という真理から遠ざけているものは何か?「日常性」というものはもう既に述べた。その他の分かりやすいものとしては「欲望」「嫉妬」などが挙げられよう。なお、これらの真理から遠ざけている「欲望」「嫉妬」はもう一つの真理「群集を操る何か或る者」の栄養分であるということに念を押しておく。

 

群集を操る何か或る者の栄養分である「欲望」「欲情」は彼自身を肥大化させる。

群集を操る何か或る者は善を「強者の戯言」すなわち「創造する想像力」によって規定させる。そしてその強者の戯言にそっと薄いベールをかぶせる。悪を「弱者のいいわけ」すなわち「物乞い、売春」によって規定させる。勿論、そのいいわけにも薄いベールをかぶせる。しかし、最も重要なことはそれらの薄いベールを世間一般ははぎ取ろうとしないことである。

 

もう一度言う。世間一般はそのベールをはぎ取ろうとはしない。まさに「臭いものにはフタ」である。世間一般は拡声器を使って大声で「生命の誕生こそ真理である」と叫ぶことで、その臭いもののフタにすら目を背ける。「生命の誕生は人間の人知を超える神の領域であり、それは命のリレーというとても美しい愛である。この生命の神秘こそ真理であり、これに反すること、例えば自分の欲望、情欲を満たすだけの売春は忌み嫌うべきものであり、醜い」と世間一般は叫んでいる。


群集を操る何か或る者がかもし出す真理は実はドリアン並みに臭い。ベールがないとその臭さで我々個々人は死んでしまう。臭いが故に我々個々人はその彼の真理を口に出してはならない。何故なら彼の真理は彼自身から発せられる真理だからであり、我々ちっぽけな個々人の真理ではないが故に、例えば「売春は人類発展に必要であった」などといったことを個々人が口にすると、瞬く間に世間一般から袋叩きにあうのである。


ドリアン並みに臭い彼の真理は、その気配だけで気付くべきものであり、口から発せられるべきものではない。拡声器を使って発せられるのはもっぱら「きれいごと」のみである。


群集を操る何か或る者を個々人が具体的に感じる瞬間がある。それは例えば営業で見知らぬ人の家のチャイムを片っ端から押す瞬間や、飲食店の接客で沢山の見知らぬ人に笑顔を振りまく瞬間などである。この「見知らぬ者から信用を得るために必死になること」こそ、群集を操る何か或る者の具体形である(「群集を操る何か或る者」とは抽象的概念ではない。また個々人と無関係な概念ではない)。


この群集を操る何か或る者こそ我々個々人の生き死にの決定権を持っており、生きることが許された場合において、その個々人にお金という血液を流し、その個々人はめでたく生き延びることが出来るのである。この点を全く認識せずによく未成年が「何故、子供のときに勉強しないといけないのか」と言う姿が見受けられるが、要はこの我々の生き死にの決定権を持っている彼から少しでも「生きろ」と言われるために勉強するのである。それは目の前の映画のワンシーンなんかではない。個々人自身の「生きるか死ぬかの戦い」であって、単なる「安定へのレール」という生易しいものではない。これは好むと好まざるとに関わらず、事実としてそうなのである。