fstoe's blog

現実に生きる人間というものに対して、深い哲学的考察を目指しています。

世間一般の人でも悟れる「一番簡単な真理」

人間一人ひとりが最も考えるべきことは「空虚感」である。これは単純に、人間が人間として事実としてこの世に存在する以上、どこの誰に対してもその日常の奥に潜む「当たり前」だからである。要はこの「空虚感」という当たり前があるからこそ、「将来の夢」に向かって何かに打ち込むことでその「空虚」を忘却するのである。「子孫繁栄」という生命の神秘に触れることで、その「空虚」を忘却するのである。これが世間一般の人でも悟れる真理である。

 

「空虚」を真理としてあげたが、それをもっと単純な真理、すなわちその辺にいる世間一般の人でも簡単に理解できる真理として掲げなければなるまい。もちろん真理とは実際にはなかなか言葉で表せないくらいに、言葉で表されたとしても誤解を招くくらいに難しいものである。しかしやはり世間一般の「普通のその辺のひと」でも理解できるものに噛み砕かなければなるまい。


「一番簡単な真理」とはこうだ。


椅子に座る。10秒間ボーっと座る。その間にテレビのスイッチを入れたりスマホをいじったりせずひたすら何もしない。10秒後に落ち着いた後に冷静にイメージするのだ「いつかは私は必ず死ぬ。死んだ後は文字通り永遠の無」とリアルにイメージするのだ。死のイメージはしにくい。生きてるものの中で死んだ経験をした者がいないからだ。しかしそれが問題なのではない。イメージするのは、この何気無い日常が永遠に消え去るイメージである。特に自分が一番愛する者、大切にしているもの、大切な空間、時間、日常等々が(残酷だが)それらが無慈悲に自分から消え去る(実際は自分が消え去る)イメージをするのだ。

 

最低でも3分間行おう。


このイメージの後に残るのが「空虚」である。この世で何をしようが何をしないでいようが、結局は無になるという空虚感。この絶対的空虚感こそが我々が提示しようとしている「一番簡単な真理」に他ならない。この一番簡単な真理こそ、その辺の世間一般のひとが悟れる唯一の真理(悟り)である。


死をリアルにイメージすることで得られる「絶対的空虚」こそが一番簡単な真理であることを示した。しかしながら、これだけでは誤解が起きる恐れがある。一番起きやすい誤解が「その空虚というものは、ウツではないのか。ウツに陥ってしまうと、それこそ人生を悲観し、そして最悪の場合はその悲観によって自殺をしてしまうのではないか。」といった誤解である。


まず、ウツではない。ウツとは「日常生活に支障をきたすくらいに落ち込んだり不眠、食欲不振などに陥る」状況である。ここで言っている空虚とは、その日常が普段どおりに流れている中での空虚である。普段どおりベッドから起き、普段どおり仕事をし、普段どおり風呂に入り、普段どおり寝る。この繰り返しの中で自覚する「空虚」なのである。もっというと、そういう空虚感の中でも「自分の好きな野球チームのリーグ優勝」や「タイムズスクエアのカウントダウン」で人生最高の幸せを感じることすらある。「生きていることに意味はない」といって、わざわざ日常を壊すわけではない。そういう状況ではなく、ただただ一切が過ぎ去る流れの中(永遠回帰的な感覚)でただただ静かに感じる「空虚」である。


一般市民は、多かれ少なかれ「未来に夢を持ってその夢の実現のために一生懸命に努力する人生」こそが幸せであると思っている。ここで言っている空虚はそれとは次元を異にする。夢なんてない。未来なんてない。とはいっても悲観主義でもなく、ウツでもない。ましてや自殺を助長しているわけでもない。そこにあるのは、ただただ一切が過ぎ去る「瞬間」の流れのみである。


これが一般市民でも簡単に悟れる「一番簡単な真理」である。